憧れの虹の松原
2015-11-14


今日の朝日新聞be「みちのものがたり」に唐津街道が掲載されていた。タイトルは
「無謀な戦争の傷痕を探して」

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この案内図は朝日新聞2015.11.14日のbe紙面をコピーして掲載した。
今から10年前、2005年11月19日(土)にNHK総合テレビ「環境新時代 地球大好き」というシリーズで「佐賀発 白砂青松が消えていく」が放映された。
私は、退職した翌年で、毎日風の松原を歩いている時だったので、この番組には感銘を受けた。
その様子をホームページ「風の松原案内」のなかの「松原の危機」というページで紹介している。改めてホームページ「風の松原案内」を読み返してみた。左側に掲載されている「目次」の「広葉樹の侵入」や「松くい虫被害」なども「佐賀発 白砂青松が消えていく」の画像を利用して作ったページだ。

こちらは今日(2014.11.14)の朝日新聞に出ていた鏡山展望台から見た唐津湾の様子。海に面した緑色が松林だ。
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「無謀な戦争の傷痕を探して」はこういう文章で始まっている。
「−−−」で囲まれた部分が朝日新聞からの引用部分

−−−「戦争の傷痕を探すため、松が連なる緑のトンネルを歩いた。道の名は唐津街道。日本三大松原に数えられる佐賀県唐津市の「虹の松原」を4.5`ほどにわたって貫いている。
 傷痕とは、ものの例えではない。戦後70年の世から見ると、日本軍の無謀さばかりが目につくあの戦争で、払底していた航空燃料を作ろうと松ヤニを採取するためにつけられた傷痕が、今も松の木に残っているというのだ。−−−
 
 と書き始めている。
NPO「KANNE」の人たちと細い径を20分ほど歩いて写真の場所に着いたそうだ。
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この写真は、直径40センチくらい、樹齢100年くらい。縦に1本切り込んだ傷に向け、左右から斜め45度ぐらいの角度で、幾重にもV字形の傷が刻まれていた。

−−−沿道で暮らしてきた脇山さんは、幼い頃に見た松ヤニを取る仕掛けについての記憶を話してくれた。松の縦の傷から金属板で松ヤニを導き、下に置いた一斗缶にためていた。「中にはあめ色の松ヤニがたくさん。上澄みは白く固まっていました。−−−

−−−「虹の松原」を見守ってきた佐賀大名誉教授の田中明さん(71)は傷痕に興味を持ち、調査をしたことがある。2004年春頃の時点で、約60本の松に傷痕を確認した。「傷痕は、直径約40センチの樹齢100年ぐらいの木に集中していました。勢いのある木が選ばれたようです。−−−

第二次世界大戦末期には、この松林でも能代と同じようなことが行われていたのだ。

下の画面は、風の松原に守られる人々の会の記念誌の11ページ。
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このページも、先に書いたホームページ「風の松原案内」で読むことができる。目次から「クロマツ関連書籍」を開き、「守られて300年 この緑を未来へ 風の松原」という小冊子を探すと、右端に黄色地にPDFというリンクがあるので、そこをクリックすると表示される。

この写真は2015年11月16日撮影の「風の松原のアリ地獄」
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